なぜ同じ買収価格が、売り手の発表では「21倍」、買い手の資料では「約16倍」になるのか。答えは割り算の分母にある。日本ペイントホールディングス(4612)は10月5日の寄り前、オランダの塗料大手アクゾノーベルから東南アジアの建築用塗料事業を13億5,000万ドル(約2,160億円)で買い取ると発表した。売り手は2025年の実績で割り、買い手は2026年の予想で割った。約5倍分の差を埋めるのは、まだ実現していない1年分の利益の伸びである。
株価の反応は控えめだった。前引けは1,169円で、前営業日比10円50銭高(0.91%高)。同じ時間帯に日経平均は2.5%上げており、市場全体には届いていない。本稿ではこの買収を教材に、M&Aの値段を測る物差し「EV/EBITDA倍率」の読み方を順に見ていく。
アパート一棟の値段を、家賃で割って考える
この記事では、最後まで一つの比喩を使う。会社を買うことは、アパートを一棟買うことに似ている。アパートの値段が高いか安いかは、値段だけでは決まらない。その建物が毎年いくらの家賃を生むかと比べて、初めて判断できる。家賃1,000万円の物件を2億円で買えば、値段は家賃の20倍だ。
ここが肝心だ。「家賃」として、去年の実績を使うか、来年の見込みを使うかで、同じ物件の倍率は変わる。売り手は「去年はこれだけ稼いだ」と言い、買い手は「来年はこれだけ稼げる」と言う。どちらも嘘ではない。ただ、来年の家賃はまだ誰の口座にも入っていない。今回の日本ペイントの買収は、この違いがはっきり数字に出た例である。
3つの道具を順に見ていく
まず物件の値段にあたるのがEV(企業価値)である。株式の値段に、引き継ぐ借金を足し、現金を引いたものだ。アパートでいえば、物件価格にローンの残りを含めた「本当の支払総額」にあたる。今回はアクゾノーベルの発表が「企業価値ベースで約13億5,000万ドル」と明記しており、日本ペイントの開示も取得価額の総額を同じ13億5,000万ドルとしている。
次に家賃にあたるのがEBITDAである。本業の利益に、減価償却費などの現金が出ていかない費用を足し戻したもので、事業が生む現金の目安になる。借入の多寡や国ごとの税率、設備の古さに左右されにくいため、国をまたぐ買収の比較によく使われる。
最後に、その2つを割ったものがEV/EBITDA倍率だ。「この事業を、年間の稼ぎの何年分で買ったか」と読めばよい。倍率が低いほど割安に買ったことになる。ただし、どの年のEBITDAで割ったかを書かずに倍率だけを比べるのは、去年の家賃と来年の家賃を混ぜて利回りを比べるのと同じで、意味をなさない。
用語メモ。①EV(企業価値)=株式の価値+純有利子負債。会社を丸ごと買うときの支払総額の目安。②EBITDA=営業利益+減価償却費など。事業が生む現金の目安で、借入や税率の違いを均したもの。③PPA(取得原価の配分)=買収価格を、買った資産やブランドなどに割り振る会計処理。割り振った分は後年に償却費として利益を削る。
実際の数字に当てはめる——21倍と16倍の正体
日本ペイントの開示によると、買収対象の事業は2024年12月期に売上収益2億9,900万ドル、EBITDA6,900万ドル(利益率23%)、2025年12月期に売上収益2億9,100万ドル、EBITDA6,500万ドル(同22%)だった。売上も利益も、直近1年は少し縮んでいる。
アクゾノーベルはこの2025年実績で割り、倍率を「21倍」と発表した。13億5,000万ドル÷6,500万ドルで約20.8倍だから、計算は合っている。一方、日本ペイントの説明会資料は、2026年の業績予想を「売上収益約3億3,000万ドル超、EBITDAマージン約26%」とし、倍率を「約16倍」とした。3億3,000万ドルに26%を掛けると約8,580万ドル。13億5,000万ドルをこれで割ると約15.7倍になり、こちらも計算は合う。
同じ13.5億ドルを、どの年のEBITDAで割るか(倍)
読み方:分子の13億5,000万ドルは4本とも同じで、変わっているのは分母だけである。2025年実績から2026年予想へ分母を替えると、倍率は約20.8倍から約15.7倍へ下がる。出所:日本ペイントホールディングスの開示資料・説明会資料、アクゾノーベルの発表。2026年予想EBITDAは「売上収益約3.3億ドル超×マージン約26%」から本誌が計算、最下段は本誌の試算。
つまり、2つの倍率の差は値段の差ではない。分母、つまり「家賃」の見積もりの差である。そして16倍が成り立つには、2025年に6,500万ドルだったEBITDAが、2026年に約8,580万ドルへ約32%増える必要がある。売上は約13%増、利益率は22%から約26%へ4ポイント上がる計算だ。直近1年で売上も利益率も下がっていた事業である。この反転がどこから来るのか、公表資料に内訳は示されていない。
アパートで言えば、去年の家賃は下がっていたが、今年は3割上がる見込みだという物件だ。見込みが正しければ買い手の言う通り16倍で買ったことになり、外れれば売り手の言う21倍に近づく。どちらの物差しで測るかで、同じ取引の印象はまるで変わる。
買い手が描く「リフォーム後の家賃」
買い手はさらにその先も見ている。日本ペイントは、年間のシナジー(統合効果)を「売上高比で1桁台後半(%)以上」と見込む。原材料の共同購入、生産拠点と物流の再編、既存の販売網との相互販売、重複する管理部門の統合の4つが源泉だという。アパートで言えば、買ったあとにリフォームをして家賃を上げる計画にあたる。
仮に「1桁台後半」の下限を7%とし、2026年予想の売上約3億3,000万ドルに掛けると、シナジーは年約2,300万ドル。これを2026年予想のEBITDAに足すと約1億900万ドルになり、倍率は約12.4倍まで下がる。ただしこれは本誌の試算であり、シナジーが満額に届く時期は示されていない。資料が示す時間軸は「買収初年度からEPS(1株利益)に貢献」「3年目までにROIC(投下資本利益率)がWACC(資本コスト)を上回る」の2点である。
このEPSの見通しには、PPAに伴う償却費と、買収資金の借入にかかる利息が反映されている。一方で、買収に伴う取引費用は含まれていない。PPAの金額は「現在精査中」とされている。リフォーム後の家賃は、まだ設計図の段階にある。
買収の日程と、会社が示した採算の時間軸
読み方:上の3つは手続きの日程、下の2つは会社が示した採算の目標である。シナジーが満額に届く時期は示されていない。出所:日本ペイントホールディングスの開示資料・説明会資料(2026年10月5日)。
代金はすべて借金で払う
アパートを現金で買うか、ローンで買うかも重要だ。日本ペイントは買収資金を銀行借入と手元資金でまかない、新株の発行は予定していないとした。既存株主の持ち分が薄まらない代わりに、借金が増える。説明会資料では、純有利子負債をEBITDAで割ったレバレッジ(借金が稼ぎの何年分か)は、2026年末に約2.8倍となる見込みだ。この買収を前提としない場合の約2.3倍から上がる。日本ペイントは、格付と財務の健全性を保てる水準に抑えるとしている。
規模感も押さえておきたい。2,160億円は日本ペイントの時価総額2兆7,711億円(10月5日11時30分時点、株探)の約7.8%にあたる。会社全体を揺るがすほどの大きさではない。2026年12月期の業績への影響も「軽微」とされている。開示の円換算は1ドル=160円を前提にしている。10月5日11時30分ごろのドル円157円78銭前後で換算し直すと約2,130億円になる。
売り手側の事情も確認しておく。アクゾノーベルは米塗料大手アクサルタとの経営統合を進めており、今回の売却でアジアの建築用塗料事業の見直しを終えるとしている。インドとパキスタンの事業はすでに売却済みだ。税金と少数株主への支払いを差し引いた手取りは約10億ドルの見込みである。売り手には「売り急ぐ理由」があったと読むこともできるが、交渉の中身は公表されていない。
何を買ったのか——Duluxという看板
買収の対象は、インドネシア、マレーシア、シンガポール、タイ、ベトナム、豪州、パプアニューギニアの7カ国の建築用塗料事業で、生産拠点3カ所と研究開発センター1カ所(マレーシア)を含む。中核は「Dulux」ブランドだ。日本ペイントは豪州とニュージーランドでは2019年に買収したDuluxGroupを通じてすでにこのブランドを展開しており、今回、東南アジアでも同じ看板を手に入れることになる。「Maxilite」「Aquatech」のブランドも加わる。
会社はこの買収を、資産を買い集める型ではなく、既存事業に付け足す「ボルトオン型」と位置づけている。説明会資料によると、調整後営業利益に占める「NIPSEA中国以外」(中国を除くアジアなど)の比率は、2025年実績の29%から、買収後のプロフォーマ(合算試算)で約31%に上がる。成長の軸を東南アジアに寄せる一手である。手続きは各国の規制当局の承認を経て、最終完了は2027年半ばの見込み。インドネシアだけは別の取引として2026年末に先行して完了する見通しだ。
よくある誤解:「倍率が低い=割安に買えた」とは限らない。倍率は分母に何を置くかで簡単に変わる。来年の予想で割れば、ほとんどの成長企業の倍率は低く見える。発表資料で倍率を見たら、まず「何年の、実績か予想か」を確かめてほしい。今回は同じ取引に21倍(2025年実績)と約16倍(2026年予想)という2つの数字が並んでいる。どちらかが誤りなのではなく、測っている時点が違うのである。
株主が確かめるべきこと
個人投資家にとっての確認点は、2026年の「家賃」が本当に3割上がるかどうかに尽きる。インドネシアの取引が完了する2026年末以降、日本ペイントの決算で東南アジア事業の数字がどう出てくるかを見ればよい。もう一つは、PPAの金額が固まったときに、償却費がEPSをどれだけ削るかである。買収の成否は、発表の日ではなく、数年後の決算で決まる。
| 確認点 | 会社の見通し | 見る場所 |
|---|---|---|
| 2026年の対象事業EBITDA | 売上収益約3億3,000万ドル超、利益率約26%(2025年は22%) | 統合後の決算説明資料の地域別数字 |
| EPSへの影響 | 買収初年度からプラス(PPA償却と利息を反映、取引費用は除く) | PPA確定後の会社説明 |
| 投資の採算 | 3年目までにROICが資本コストを上回る | 中期の決算説明 |
| 借金の重さ | 2026年末のレバレッジ約2.8倍 | 決算短信の純有利子負債 |
| 完了の時期 | インドネシアは2026年末、その他は2027年半ば | 会社の適時開示 |
まとめ——去年の家賃か、来年の家賃か
アパートの比喩に戻ろう。日本ペイントは、去年の家賃で測れば約21年分、今年の見込みで測れば約16年分の値段で物件を買った。リフォームが計画通りに進めば、その年数はさらに縮む。だが、去年の家賃は下がっており、今年の値上がりはまだ見込みにすぎない。覚えて帰ってほしいのは次の3点である。
- 倍率は分母で決まる。EV/EBITDAを見たら、何年のEBITDAかを必ず確かめる。今回は2025年実績で約21倍、2026年予想で約16倍だった。
- 差は「まだ起きていない成長」である。16倍の前提には、EBITDAの約32%増がある。直近1年は減益だった事業である。
- 代金は借金で払う。新株は出さないが、レバレッジは約2.8倍に上がる。株主の持ち分は薄まらない代わりに、利息と償却がEPSの見通しを左右する。
M&Aの値段が後の業績を削った例としては、ディックスによるフットロッカー買収がある。反対に、交渉が長引いて白紙になった例がデンソーと日本特殊陶業のプラグ事業だ。倍率で株価を測る考え方はパランティア株のPER検証でも扱っている。
主な参照
- 株式取得・事業譲受けのお知らせ(契約日、取得価額、対象事業の2024・2025年業績、日程、業績への影響)/日本ペイントホールディングス(2026年10月5日)
- 買収に関する説明会資料(2026年予想、EV/EBITDA約16倍、シナジー、レバレッジ、EPS・ROICの見通し、利益構成)/日本ペイントホールディングス(2026年10月5日)
- 売却の発表(企業価値約13億5,000万ドル、2025年EBITDA倍率21倍、手取り約10億ドル、アクサルタとの統合)/AkzoNobel(2026年10月5日)
- 日本ペイントHDの株価と時価総額(10月5日前引け、11時30分時点)、日経平均、ドル円/株探
- 寄り前の発表と株価の反応/株探(MINKABU PRESS)
データ基準日:2026年10月5日。株価と時価総額は同日の東京市場の前引け(11時30分)時点で、終値ではない。ドル円は同日11時30分ごろの気配値(株探)である。対象事業の2026年EBITDA約8,580万ドル、EBITDAの増加率約32%、シナジー込みの倍率約12.4倍、取得価額の時価総額比約7.8%、円換算約2,130億円は、会社の開示値をもとにした本誌の計算である。シナジーの「1桁台後半」を7%とした仮定は本誌によるもので、会社は具体的な数値や達成時期を示していない。EBITDAの2026年の反転の内訳は公表資料に示されていない。本記事は情報提供を目的としたものであり、特定の銘柄の売買を推奨するものではない。投資判断はご自身の責任において行っていただきたい。
















