なぜ実質賃金は、8カ月続けてプラスになったのか。答えは「給料が増えたから」だけではない。厚生労働省が10月7日に公表した毎月勤労統計(8月分速報)では、実質賃金が前年同月比1.5%増と8カ月連続のプラスになった。だが分解してみると、上向きに転じた幅のおよそ半分は、物価の伸びが鈍ったことで説明できる。しかも「同じ事業所どうし」で比べ直すと、名目賃金の伸びは見出しの3.8%から2.8%まで縮む。
今日は、この数字を1つの比喩で読み解いていく。財布と値札である。財布の中身が名目賃金、店に並ぶ値札が物価、そして「財布の中身で、値札の付いた品物をいくつ買えるか」が実質賃金だ。この比喩を最後まで手放さずに、順に見ていく。
第1講:財布は太り続けている
まず財布の中身から確認しよう。8月の現金給与総額(従業員5人以上の事業所、1人平均)は31万1,364円で、前年同月比3.8%増だった。3%以上の伸びは7カ月連続で、厚労省によれば34年5カ月ぶりのことだ。基本給にあたる所定内給与は27万7,861円で3.8%増、こちらは8カ月連続で3%以上を保っている。
正社員などの一般労働者に限ると、現金給与総額は39万9,849円で3.7%増。3%以上が7カ月続いたのは、1994年1月の調査開始以来はじめてだという。パートタイム労働者の時間当たり給与は1,472円で4.3%増、62カ月連続のプラスである。
一方で、賞与などの「特別に支払われた給与」は1万3,006円で前年と同水準だった。総額の4%ほどにすぎず、財布を太らせたのは毎月決まって払われる部分だ。つまり、一時金のかさ上げではなく、ベースの給料が上がっている。ここが肝心だ。
第2講:値札の上がり方が緩くなった
次に値札を見る。実質賃金を計算するとき、厚労省は「持家の帰属家賃を除く総合」という消費者物価指数で名目賃金を割る。8月のこの物価の伸びは前年同月比2.2%だった。2025年の1年間では3.7%上昇していたから、値札の上がり方は目に見えて緩んでいる。
ここで、財布と値札を同じ表に並べてみてほしい。2025年の年間平均では、財布が2.3%太る一方で値札は3.7%上がり、実質賃金はマイナス1.3%だった。2026年8月は、財布が3.8%太り、値札は2.2%の上昇にとどまり、実質賃金はプラス1.5%になった。
財布と値札:2025年平均と2026年8月の比較(前年比、%)
読み方:実質賃金の改善2.8ポイントのうち、名目の加速(2.3%→3.8%)と物価の鈍化(3.7%→2.2%)がそれぞれ約1.5ポイント。物価は持家の帰属家賃を除く総合(2020年基準)。出所:厚生労働省「毎月勤労統計調査」2026年8月分速報の付表、本誌計算。
マイナス1.3%からプラス1.5%へ、改善幅は2.8ポイントある。このうち財布の側、つまり名目賃金の伸びが2.3%から3.8%に加速した分が1.5ポイント。値札の側、物価の伸びが3.7%から2.2%に鈍った分も1.5ポイントだ。実質賃金はおおむね「名目の伸び−物価の伸び」で近似できるので、改善の半分は賃上げ、半分は物価の落ち着きが運んできたと読める(端数の差は近似によるもの)。
この読み方には実務上の意味がある。賃上げだけで実質賃金がプラスになっているのなら、物価が多少上がり直しても簡単には崩れない。だが半分が値札の落ち着きに頼っているなら、物価が再び3%台に戻れば、プラスの幅はすぐに削られる。
用語メモ。名目賃金=実際に受け取った金額(財布の中身)。実質賃金=名目賃金を物価指数で割った値で、買える量を表す(財布で買える品物の数)。持家の帰属家賃=持ち家に住む人が、仮に家賃を払ったらいくらかを推計した値。実際には支払われないため、厚労省は購買力を測る主な指標ではこれを除いた物価を使う。
第3講:8カ月の道のりを並べる
1カ月の数字だけで判断するのは危うい。過去13カ月の実質賃金を順に並べると、流れがはっきりする。2025年8月はマイナス1.7%、12月でもマイナス0.1%だった。2026年1月にプラス0.7%へ転じてから、2月と4月に2.0%、6月に2.2%、7月は確報で2.0%と、プラスの幅は1〜2%台で推移してきた。
実質賃金の前年同月比(2025年8月〜2026年8月、%)
読み方:2026年1月にプラスへ転じ、以後8カ月続けてプラス。8月は7月から0.5ポイント縮んだ。出所:厚生労働省「毎月勤労統計調査」2026年8月分速報の付表(事業所規模5人以上、持家の帰属家賃を除く総合で実質化)。
8月の1.5%は、この8カ月のなかでは1月(0.7%)、3月(1.4%)に次いで低い。7月の2.0%からは0.5ポイント縮んだ。財布の伸びが7月の4.3%から3.8%に鈍ったことが響いている。8カ月連続という見出しは正しいが、8月は「勢いが少し落ちた月」でもあった。
第4講:同じ人の財布で比べ直す
ここからが、この講義でいちばん大事な部分だ。毎月勤労統計は、調査対象の事業所を定期的に入れ替えている。2026年1月にも部分的な入れ替えがあった。財布の比喩でいえば、去年と今年で「財布を見せてくれる人」が少しずつ違うのである。給料の高い事業所が多く入れば、それだけで平均は上がって見える。
この歪みを取り除くために、厚労省は参考資料として「共通事業所」による前年同月比を公表している。前年と今年の両方で調査に答えた事業所だけを比べた数字だ。いわば「同じ人の財布を、1年前と比べる」計算である。顔ぶれの入れ替わりに左右されない分、賃金の基調を見るには、こちらのほうが素直だ。
見出しと共通事業所の比較(2026年8月、前年同月比、%)
読み方:同じ事業所どうしで比べると、現金給与総額の伸びは1.0ポイント、所定内給与は0.7ポイント低い。出所:厚生労働省「毎月勤労統計調査」2026年8月分速報および参考資料「共通事業所による前年同月比」。
8月の共通事業所の現金給与総額は2.8%増だった。見出しの3.8%より1.0ポイント低い。基本給にあたる所定内給与も3.1%増で、見出しの3.8%を0.7ポイント下回る。この差の大きさは月によって違い、7月は共通事業所で2.9%、見出しで4.3%だった。
厚労省は共通事業所ベースの実質賃金を公表していない。そこで本誌が単純な引き算で試算すると、名目2.8%から物価2.2%を差し引いて、およそ0.6%のプラスになる。プラスには違いないが、見出しの1.5%の半分に満たない。値札の上がり方が0.6ポイント強まるだけで、ゼロ近辺まで押し戻される距離だ。
一方で、共通事業所でも明るい材料はある。パートタイム労働者の所定内給与は4.9%増と、むしろ高い伸びだった。時間単位で働く人の財布は、同じ人どうしで比べてもしっかり太っている。弱いのは、一般労働者の基本給だ。共通事業所の一般労働者の所定内給与は2.8%増にとどまった。
よくある誤解:「物価は1.9%なのに、なぜ2.2%で割るのか」。総務省が9月18日に公表した8月の全国消費者物価指数は、新しい2025年基準で総合1.9%上昇だった。ところが毎月勤労統計は、2020年基準の物価指数で実質化しており、そちらの総合は2.0%、持家の帰属家賃を除く総合は2.2%である。基準の違う2つの値札を混ぜると、計算が合わなくなる。実質賃金を自分で検算するときは、厚労省の資料に載っている物価の伸びを使うのが安全だ。
第5講:日銀と株式市場にとっての意味
では、この数字は投資家にとって何を意味するのか。日銀は、賃金と物価がそろって上がる好循環が続くかどうかを、利上げを判断する軸に据えてきた。その観点からは、今回の統計には2つの顔がある。
1つ目の顔は追い風だ。名目賃金は見出しで7カ月連続3%以上、共通事業所でも2〜3%台を保っている。賃金の側が崩れていないことは、利上げを続けたい日銀にとって支えになる。2つ目の顔は慎重論の材料だ。実質賃金がプラスになった理由の半分が物価の鈍化にあるなら、物価が2%を割り込むリスクも同時に意識される。植田総裁が10月6日の講演で物価について「2%に近づいている」という表現を据え置いたことは、こちらの記事で詳しく扱った。
次の大きな節目は、10月29日(木)・30日(金)の金融政策決定会合だ。日銀のウェブサイトによれば、この会合では「経済・物価情勢の展望(展望レポート)」の基本的見解も30日に公表される。それまでに出る物価の数字は、会合での判断材料として重みを増す。東京の物価の読み方は9月分の解説を参照してほしい。
株式市場の目線では、実質賃金のプラス定着は小売りや外食など内需株の追い風と語られやすい。ただ、財布で買える品物の数が増えても、それが実際に店で使われるかは別の話だ。個人消費の実態は、家計調査や企業の月次売上で確かめる必要がある。実質賃金のプラスは、消費が伸びる「条件」であって「結果」ではない。
まとめ:財布と値札、覚えて帰る3点
財布と値札の比喩に戻ろう。財布は確かに太っている。だが今年の実質賃金の改善は、財布が太った効果と、値札の上がり方が緩んだ効果が、ほぼ半分ずつで成り立っている。そして同じ人の財布で比べると、太り方は見出しより控えめだ。
- 改善の半分は物価の鈍化。2025年平均のマイナス1.3%から8月のプラス1.5%への改善2.8ポイントのうち、賃上げの加速と物価の鈍化がそれぞれ約1.5ポイントずつ寄与した。
- 共通事業所で見ると名目は2.8%。見出しの3.8%より1.0ポイント低く、本誌試算の実質はおよそプラス0.6%にとどまる。
- 物価の基準に注意。毎月勤労統計は2020年基準の物価で実質化しており、総務省の新しい2025年基準(8月は総合1.9%)とは数字が一致しない。
日銀の利上げと為替の関係を整理したい場合は、短観の読み方もあわせて読むと、賃金と企業の価格設定がどうつながるかが見えやすくなる。
主な参照
- 毎月勤労統計調査 2026年8月分結果速報(報道発表資料・概況・付表)/厚生労働省
- 共通事業所による前年同月比(参考資料)/厚生労働省
- 消費者物価指数(全国)2026年8月分・2025年基準/総務省統計局
- 金融政策決定会合の開催日程/日本銀行
データ基準日:2026年10月7日(日本時間)。8月分は速報値であり、確報で改訂される場合がある(7月分は確報で改訂済みの値を使った)。数値は断りのない限り事業所規模5人以上・調査産業計。実質賃金は厚労省が「持家の帰属家賃を除く総合」(2020年基準)で実質化した値。改善幅の要因分解と共通事業所ベースの実質賃金(約0.6%)は、名目の伸びから物価の伸びを差し引いた本誌の近似計算であり、厚労省の公表値ではない。2026年1月の調査対象事業所の部分入れ替えにより、現金給与総額の水準には-1,582円(-0.5%)の断層が生じていると厚労省は注記している。本記事は情報提供を目的としたものであり、特定の金融商品の売買を推奨するものではない。投資判断はご自身の責任において行っていただきたい。















