1991年1月17日、ニューヨークの原油トレーダーは開戦の報を受けて売りに回った。米エネルギー情報局(EIA)の記録では、WTI原油の現物価格は前日の1バレル32.25ドルから21.48ドルへ、1日で33.4%下げた。戦争が始まった日に、戦争の保険料が剥がれ落ちたのである。
35年後の2026年11月4日、今度は選挙が引き金になった。中間選挙で与党共和党が大敗し、トランプ大統領とバンス副大統領が敗因としてイラン戦争を挙げると、市場は「戦争は終わりに向かう」と読んだ。WTI先物12月限は前日比7.69ドル安の88.39ドルで引け、8月31日以来の安値を付けた(investingLive、米東部時間4日)。ブレント原油も米東部時間13時06分時点で8.94ドル安の94.66ドル(8.6%安)まで売られた(OilPrice.com)。本稿は、この急落を1991年と2026年4月という2枚の鏡に映し、どこまでが韻でどこからが違いなのかを確かめる。
11月4日に何が起きたか
発端は選挙後の発言である。トランプ大統領は敗北について「おおむねイラン戦争の結果だ」と認めつつ、「それだけの価値はあった」とも述べた(investingLive、米東部時間4日18時15分の記事)。バンス副大統領はX(旧ツイッター)への長文投稿で戦争を敗因とし、「今後についての正直な議論はそこから始めなければならない」と書いた(OilPrice.com)。
野党側も動いた。下院民主党トップのジェフリーズ氏は、関税の停止とイラン戦争の終結を目指す法案を通すと表明した(investingLive)。上院民主党のシューマー院内総務も戦争を終わらせると述べ、一部の共和党議員が同調していると語った。ただし、議会の多数派が入れ替わるのは来年1月であり、法案が成立するには上院の可決と大統領の署名、あるいは拒否権を覆す票数が必要になる。市場はその手続きを待たずに、終結の可能性を値段に織り込みにいった。
売りは需給の強い数字も押し流した。EIAが同日発表した10月30日終了週の統計では、米国の商業用原油在庫は86万5,000バレル減の4億976万バレル、留出油(軽油・暖房油)在庫は356万5,000バレル減の9,926万バレルだった。戦略石油備蓄(SPR)は2億8,218万バレルで、1年前より1億2,741万バレル、31.1%少ない。在庫は薄いまま、値段だけが先に下がった形である。
原油の1日の下落率:3つの急落と今回
読み方:今回の下げは、1991年の開戦日や2026年4月の急落より小さい。保険料はまだ残っているとも読める。出所:EIA(WTI現物の日次価格)、investingLive(WTI先物12月限の引け)、OilPrice.com(ブレント、米東部時間13時06分)。現物と先物は値が異なるため比較は目安。
1991年の鏡:開戦の日に保険料が消えた
当時の経過をEIAの日次データでたどる。イラクがクウェートに侵攻する前日の1990年8月1日、WTI現物は21.59ドルだった。そこから10月11日には41.07ドルまで上がり、ほぼ倍になった。ペルシャ湾の供給が止まるかもしれないという恐怖が、そのまま価格に乗った。
1991年1月16日の32.25ドルから、多国籍軍の空爆が始まった17日には21.48ドルへ。奇しくも、侵攻前の21.59ドルとほぼ同じ水準に1日で戻ったことになる。市場が値付けしていたのは「戦争そのもの」ではなく「戦争がどれだけ長引き、供給がどれだけ失われるか」という不確実性だった。開戦で行方が見えたとき、保険料は一気に剥がれた。その後、1991年2月から12月までの現物価格は17.43〜24.12ドルの範囲に収まり、30ドル台には戻っていない。
2026年4月の鏡:急落はすべて取り戻された
もう1枚の鏡は、半年前の同じ戦争の中にある。EIAのデータでは、WTI現物は4月7日の114.58ドルから翌8日に96.17ドルへ16.1%下げた。さらに4月17日には、イランの外相がホルムズ海峡を停戦期間中はすべての商船に開放すると述べ、トランプ大統領も「イランは二度と海峡を閉じないと約束した」と語ったことで、先物は日中に12%超下げた(OK Energy Today)。現物も96.46ドルから85.91ドルへ10.9%安だった。
だが、その下げは続かなかった。8営業日後の4月29日、現物は110.47ドルまで戻り、4月17日の安値から28.6%上げた。約束は出たが、船の流れが元に戻る前に約束が揺らいだからである。開戦前の2月27日に66.96ドルだった現物価格は、以後一度もその水準に戻っていない。
WTI現物価格の推移(2026年2月27日〜11月3日、ドル)
読み方:4月17日のホルムズ開放発言で付けた安値は、8営業日後に28.6%戻された。開戦前の66.96ドルには一度も戻っていない。出所:EIA(WTI現物、クッシング渡し)。11月4日の先物の引け値88.39ドルは現物とは別系列のため含めていない。
現在との対照表:同じ点と違う点
2枚の鏡を並べると、今回の急落がどちらに近いかを判断する材料が見えてくる。1991年は「行方が見えた」ことで下げが定着し、2026年4月は「約束だけ」だったために下げが巻き戻された。今回はその中間にあるというのが本誌の見立てである。
| 論点 | 1991年1月17日 | 2026年4月17日 | 2026年11月4日 |
|---|---|---|---|
| 引き金 | 多国籍軍の空爆開始 | イラン外相のホルムズ開放発言 | 与党の選挙大敗と、戦争を敗因とする発言 |
| 1日の下落率 | 33.4%(現物) | 10.9%(現物) | 8.0%(先物12月限の引け) |
| 侵攻・開戦前の水準との比較 | 開戦前(侵攻前)の水準へほぼ全戻し | 開戦前を約19ドル上回る | 開戦前の現物を約21ドル上回る(先物) |
| 供給の物理的な回復 | 短期決着の見通しが立った | 回復前に約束が揺らいだ | まだ起きていない。湾岸の輸出は戦前の約4分の3 |
| その後 | 年内は17〜24ドル台で推移 | 8営業日で28.6%戻した | 未定 |
湾岸からの原油・コンデンセート・石油製品の輸出は、10月に日量1,710万バレルと9月の1,890万バレルから減り、戦前のおよそ4分の3にとどまる(ボルテクサ調べ、OilPrice.com経由)。1991年と違い、今回はまだ「行方が見えた」とは言えない。イランの最高指導者モジタバ・ハメネイ師は書面で、米国の敵対はどちらの党が政権を握っても続くと述べている。サウジの首都の空港を標的にしたとするフーシ派の主張も出た(サウジ当局は攻撃を確認していない)。
「今回は違う」論の検証
今回は違うと言える根拠は2つある。第1に、引き金が戦場ではなく国内政治である点だ。戦争を続ける政治的な費用が選挙で数字になった。大統領自身が敗因を認め、野党は予算権限も視野に入れている。4月の「約束」より、戦争を終わらせる誘因は強い。
第2に、先物の期間構造が変わった。TradingViewの気配値(日本時間5日午前7時47分)では、WTIの期近12月限が88.12ドルに対し、1年先の2027年12月限は74.56ドル。4日の下げ幅は期近が7.97ドル、1年先が4.76ドルで、期近の上乗せ分がより大きく削られた。期近と1年先の差は約16.8ドルから約13.6ドルに縮んだ。前日までの曲線の形は原油先物の期間構造を解説した記事に詳しい。
一方で、同じだと言える根拠もある。在庫は薄く、SPRは1年前より3割少ない。investingLiveのアダム・バトン氏は、和平が成立しても在庫の積み直しにどれだけ時間がかかるのか、製油所はすでにフル稼働だと指摘し、戦争中に何度も楽観が裏切られてきたと書いた。BOKファイナンシャルのデニス・キスラー氏は、民主党議会が中東での軍事支出を締め付け、和平を早める可能性があるとみる一方、エンベラスのカール・ラリー氏は、解決の前にエスカレーションが来るおそれがあると警告している(いずれもOilPrice.com)。
歴史が示す3つの教訓
- 保険料は出来事ではなく「見通し」で剥がれる。1991年は開戦の日、今回は選挙の翌日に下げた。いずれも供給が戻る前である。
- 下げが定着するかは、物の流れが決める。1991年は短期決着で流れの不安が消えた。2026年4月は約束が揺らぎ、8営業日で28.6%戻した。
- 韻は踏むが、反復はしない。1991年のような開戦前水準への全戻しは、今回の先物曲線にはまだ織り込まれていない。1年先の74.56ドルでも開戦前の現物66.96ドルを上回る。
今後のシナリオと監視点
本誌は今後4週間のWTI先物について、次の3つのシナリオを置く。確率は本誌の判断であり、価格帯は期近物の目安である。
| シナリオ | 確率 | WTIの目安 | 条件 |
|---|---|---|---|
| A:終結合意が具体化し、下げが定着(1991年型) | 30% | 75〜84ドル | 停戦の枠組みや海峡通航の再開が文書で示され、湾岸輸出が増え始める |
| B:交渉が長引き、85〜97ドルで往来 | 45% | 85〜97ドル | 政治の圧力は続くが、合意は1月の新議会まで持ち越される |
| C:合意前のエスカレーションで巻き戻し(2026年4月型) | 25% | 97〜108ドル | 海峡やサウジ周辺での攻撃が確認され、輸送の停滞が再燃する |
値段の目安としては、まず86.6〜86.9ドル付近を見る。investingLiveのグレッグ・ミハロウスキー氏によれば、7月安値からの上げの半値戻しが86.93ドル、100日移動平均が86.81ドル、200日移動平均が86.66ドルと重なる(米東部時間4日17時22分の記事時点)。ここを引け値で割り込んで定着すれば、シナリオAへの傾きが強まる。逆に、4日の高値97.15ドルを引け値で回復すれば、「終結への賭け」は外れたと判断する。これが本稿の見方の撤退線である。
WTI先物の監視水準(ドル)
読み方:86.6〜86.9ドルを引け値で割り込めば下げ定着、97.15ドルを回復すれば「終結への賭け」は外れ。出所:investingLive(水準・引け値)、TradingView(1年先の気配値、日本時間5日7時47分)、EIA(開戦前の現物)。
日本の家計と円建てコスト
円建てに直すと、ブレントの8.94ドル安は1ドル158.35円(TradingView、日本時間5日午前7時47分)で換算して1リットルあたり約8.9円の原料コスト低下にあたる(1バレル=約159リットル、本誌試算)。ただし、日本が主に輸入する中東産原油の価格はブレントやWTIと同じ動きをするとは限らない。店頭のガソリン価格には補助金や税、在庫の入れ替わりが挟まるため、反映には時間差がある。補助金の縮小予定と店頭価格の関係はガソリン補助金の縮小を扱った記事と、原油安でも減るのは補助金だと書いた記事にまとめた。
今回固有の監視点は3つある。第1に、停戦や海峡通航について文書の形での合意が出るか。第2に、湾岸からの輸出量が戦前の4分の3から戻り始めるか。第3に、来週のEIA週間統計で在庫の取り崩しが続くかどうかだ。1991年の鏡が映すのは「見通しが立てば下げは定着する」という韻であり、2026年4月の鏡が映すのは「約束だけでは戻される」という警告である。どちらの韻を踏むかは、この3点が決める。
主な参照
- WTI現物価格の日次系列(1990〜1991年、2026年)/米エネルギー情報局(EIA)
- 週間石油在庫統計(10月30日終了週、表1)/米エネルギー情報局(EIA)
- WTIの4日の引け値と下げ幅、8月31日以来の安値/investingLive
- トランプ大統領の発言/investingLive
- ジェフリーズ下院民主党トップの法案方針/investingLive
- シューマー氏の発言、半値戻し・100日線・200日線の水準、4日の高値/investingLive
- ブレントの13時06分(米東部)の値、バンス氏の投稿、湾岸輸出(ボルテクサ)、アナリストの見方、ハメネイ師の声明/OilPrice.com
- 2026年4月17日のホルムズ開放発言と急落/OK Energy Today
- 先物の気配値(WTI 2026年12月限・2027年12月限、ブレント、ドル円)/TradingView
データ基準日:2026年11月5日(日本時間午前7時47分)。WTI先物12月限の88.39ドルは米東部時間4日の引け値(investingLive報道)、ブレントの94.66ドルは米東部時間4日13時06分時点の取引時間中の値である。期間構造とドル円は日本時間5日午前7時47分時点の時間外の気配値で、引け値ではない。1990〜1991年と2026年4月の価格はEIAが公表するWTI現物(クッシング渡し)の日次価格であり、先物とは値が異なる。現物と先物を並べた比較は目安である。1リットルあたりの円換算、シナリオの確率と価格帯は本誌の試算・判断であり、将来の価格を保証しない。本記事は情報提供を目的としたものであり、特定の金融商品の売買を推奨するものではない。投資判断はご自身の責任において行っていただきたい。















