1998年10月、ニューヨークの取引画面でドル円は数日のうちに20円規模の円高に振れた。LTCM危機で信用が凍りつき、円を借りて高利回り資産に投じていた取引——円キャリートレード——が一斉に巻き戻された結果である。それから四半世紀あまり、円は世界の投機マネーにとって最も安く、最も退屈な「調達通貨」であり続けた。2026年8月、その座が静かにスイスフランへ移りつつある。
2026年8月19日、画面に映ったもの
米東部時間8月19日11時43分時点の値を並べる。ドル円は158.40(前日比−0.76%、前日159.62)。ドルスイスは0.7994(同−1.60%)で、フランはこの日、主要通貨のなかで最も強かった。ユーロドルは1.1666(+0.79%)、ドル指数は98.888(−0.77%)。ドルが全面安になった直接の引き金は、米財務省が長期国債の買い入れオペを倍増すると発表したことだ。1回あたりの上限を20億ドルから少なくとも40億ドルへ引き上げ、対象は残存10〜30年、期間は9月9日から11月4日である。
ここで肝心なのはスイスフラン円だ。上記2本のレートから筆者が算出したクロスレートは1フラン=198.15円になる(158.40÷0.7994)。一方、報道ベースではスイスフラン円は円買い介入前の200円台から196円近辺まで下落したと伝えられ、バンク・オブ・アメリカは190円を目標に置いているとされる。筆者の算出値と報道値には2円前後の差がある。時点とレート源の違いによるものと考えられるが、断定はしない。読者が自分で検証できるよう、計算の中身をそのまま示しておく。
値動きより雄弁なのは建玉である
為替の水準だけなら、その日の材料で揺れているにすぎないと片付けられる。決定的な傍証は米商品先物取引委員会(CFTC)の建玉報告のほうにある。8月11日までの週、ヘッジファンドのスイスフラン売り持ちは約2カ月ぶりの高水準まで積み上がった。同じ週、円の売り持ちは2週連続で削減されている。売り持ちが積み上がる通貨とは、借りて売られている通貨のことだ。つまり投機筋は、調達に使う通貨を円からフランへ入れ替え始めている。値動きではなくポジションの構造が動いているという点で、これは一日の相場観測より重い。
調達通貨の条件——「安い」より「動かない」
交代の理由は単純である。スイスの政策金利は0%、日本は1.00%。借りるコストはフランのほうが1ポイント安い。しかも日本には次の利上げが控えている。スワップ市場は9月の追加利上げをおよそ80%織り込んでおり、次回の日銀金融政策決定会合は9月17〜18日だ。仮にそこで動けば、円の調達コストはさらに上がる。
図1:調達通貨としての条件——政策金利の差
読み方:キャリートレードの調達通貨に求められる条件は「金利が低い」ことと「動かない」ことの二つである。金利ではスイスが日本を1ポイント下回る。しかも日本は9月の追加利上げが約8割織り込まれており、この差は開く方向にある。円が調達通貨として選ばれにくくなる理由は、まずここにある。
だが金利差だけが理由ではない。調達通貨に求められる第一の資質は、実は金利の低さではなく変動の小ささである。借りた通貨が急騰すれば、投資先でいくら稼いでも返済時に吹き飛ぶ。その意味でフランの足元は静かだ。ユーロスイスは0.9385と1年ぶりの低水準圏にあるが、3月にフランがつけた11年ぶりの高値(0.90近辺)からは約4%離れている。ドルスイスも1月の11年ぶり高値から7%下落した。強含みではあるが、極端な水準からは後退している——調達通貨として使うには、この「少しだけ緩んだ強さ」がむしろ都合がよい。
調達通貨の3条件。①金利が低いこと、②中央銀行が当面その低さを変えないこと、③日々の変動が小さいこと。2026年8月時点で、円は①を失いつつあり、②が9月に問われ、③は7月末の介入以降ぐらついている。フランは①②を満たし、③も相対的に安定している。
鏡①:円キャリーの誕生と崩壊(1990年代後半〜2008年)
円が調達通貨になった経緯を思い出しておきたい。1990年代後半、日本はゼロ金利政策に踏み込んだ。ほぼ無コストで調達できる通貨が世界に一つ生まれ、これを借りて豪ドルやニュージーランドドルなどの高金利通貨に投じる取引が広がった。日本の個人投資家も外貨預金やFXのスワップ狙いという形でこの流れに加わり、当時は「ミセス・ワタナベ」という呼び名まで生まれた。
その取引は二度、劇的に巻き戻された。一度目が冒頭に挙げた1998年10月のLTCM危機、二度目が2007年から2008年にかけての金融危機である。いずれも共通する構図は同じだ。危機で信用が収縮すると、投資先を売って借りた円を返す動きが同時多発的に起き、円が急騰する。調達通貨は平時には静かに売られ続け、有事には一瞬で買い戻される。この非対称性こそが、キャリートレードの本質的な危険である。
当時といまを2列で並べる
| 論点 | 当時(1990年代後半〜2008年) | いま(2026年8月) |
|---|---|---|
| 円の政策金利 | ゼロ近辺で長期間固定 | 1.00%。9月の追加利上げを約80%織り込み |
| 日銀の方向 | 正常化に踏み切れず据え置きが続いた | 利上げ局面。9月17〜18日に次の判断 |
| 円のボラティリティ | 数年にわたる緩やかな下落で低位安定 | 7月末の介入以降、一日で数円動く局面が出た |
| 投資先 | 豪ドル・NZドルなど高金利通貨に集中 | ドル・ユーロ・新興国資産などに分散 |
| 巻き戻しの引き金 | 信用危機(LTCM、リーマン) | 未定。日銀・介入当局・スイス側の政策が候補 |
| 代わりの調達通貨 | 実質的に存在しなかった | スイスフラン(政策金利0%)が明確に存在 |
鏡が合っている点。調達通貨の条件が「低金利+低変動」であること、そして交代や巻き戻しが金利差の縮小ではなく変動の上昇によって始まること。この構造は当時もいまも変わらない。鏡が合わない点。2008年の巻き戻しは信用危機という外部ショックが引き金だった。いま起きているのは危機ではなく、日本側の金融政策と当局行動による自発的な変質である。急騰ではなく、じわじわとした席替えの形をとっている。したがって「1998年や2008年のような円の急騰が近い」と読むのは、鏡の当て方を間違えている。
鏡②:2015年1月15日、調達通貨が牙を剥いた日
フランを新しい調達通貨として語るなら、もう一枚の鏡を外すわけにはいかない。2015年1月15日、スイス国立銀行(SNB)は対ユーロで維持してきた1.20の上限を予告なく撤廃した。フランは一日で急騰し、世界のFX業者と投資家が破綻的な損失を被った。顧客の損失を吸収しきれず経営が傾いた業者もある。前日まで、その相場は「動かない相場」だった。
教訓は明快だ。調達通貨として使われる通貨のリスクは、市場からではなく中央銀行から来る。フランの0%という金利は、SNBが今後もそれを選び続けるという約束ではない。奇しくもいま、フランは2015年当時と同じく「強くなりすぎることを当局が嫌う通貨」であり、そこに投機の売り持ちが積み上がりつつある。売り持ちが積み上がった通貨が中央銀行の一言で跳ねるとき、何が起きるかを2015年1月は教えている。
注意。調達通貨の交代は、リスクの消滅ではなく移転である。円キャリーの巻き戻しリスクが薄れる分だけ、フラン急騰リスクが市場に積み上がっていく。日本の投資家にとっては、監視すべき中央銀行が日銀だけでなくSNBにも広がるということだ。
介入という皮肉——水準は戻せず、変動だけが残った
ここが本稿の核心である。7月30日から政府・日銀は断続的に円買い介入を実施し、7月31日には日米両当局が協調して介入した。約28年ぶりの日米協調円買い介入である。その直前、円は約40年ぶりの安値圏にあり、介入によって一時155円台前半まで円高が進んだ。経緯は日米協調介入の記録と介入の40年史に整理している。
図2:介入は水準を戻せなかった
読み方:28年ぶりとされる日米協調介入で一時155円台前半まで円高が進んだが、3週間で159円台へ戻した。ユーロ円も8月18日に184.80円まで上昇し、介入後の下げの約3分の2を回復している。介入は水準を戻せなかった。ただしボラティリティは上げた——調達通貨にとって最大の敵はそれである。
結果はどうだったか。3週間で戻された。ドル円は8月18日に159.80近辺まで戻し、ユーロ円は同日に約184.80円まで上昇して、協調介入後の下げのおよそ3分の2を回復した。8月19日の158.40も、介入直後の155円台前半からは遠い。水準という一点だけを見れば、介入は目的を達していない。この点は介入の効果を検証した回と協調介入後のにらみ合いで追ってきたとおりだ。
だが介入が確実に達成したものが一つある。ボラティリティの上昇だ。当局がいつ入るか分からない相場では、一日で数円動く可能性を常に織り込まねばならない。そして調達通貨にとって最大の敵は、まさにそのボラティリティである。金利が1ポイント高いことより、想定外の数円が怖い。皮肉なことに、円を守るために行われた介入そのものが、円を調達通貨として使いにくくした可能性がある。フランへの席替えは、日銀の利上げだけでなく、この副作用の産物でもある。
確認できていないこと。今回の介入の規模、および米国が1998年以来はじめて円買いに動いたのかどうかは、公式に開示されていない。本稿はいずれも断定しない。実弾の量が分かるのは、日本側の月次の介入実績公表と米側の四半期報告を待ってからになる。
「今回は違う」論を検証する
過去の局面と本当に違う点は三つある。第一に、円の金利がもうゼロではないこと。1.00%という水準は、キャリートレードの収益計算に効く実質的な負担だ。第二に、代わりの調達通貨が明確に存在すること。1998年にも2008年にも、円の代替はなかった。第三に、当局が実際に動いたこと。介入の有無は、キャリー取引の期待損益分布そのものを変える。
他方、交代を過大評価しないための反証も要る。市場関係者の見方は総じて慎重で、INGのクリス・ターナーは、円から離れるには相当のことが必要だが、その習慣を揺さぶる材料は多い、という趣旨を述べている。バンク・オブ・アメリカのアダルシュ・シンハ、ノイバーガー・バーマンのフレデリック・レプトンも同じ議論に名を連ねる。円の建玉は依然として大きく、市場慣行と流動性は一夜では動かない。ラボバンクがユーロスイスの9〜12カ月見通しを0.94から0.95へ引き上げた点も示唆的だ。0.95はフランのやや軟化を意味する——調達通貨になるとは、すなわち売られる側に回るということであり、この見通し変更は交代の物語と整合する。強いフランの物語ではなく、使われるフランの物語として読むべきである。
歴史が示す3つの教訓
- 条件は「安い」より「動かない」。金利差が1ポイント開いても、変動が抑えられていれば調達通貨の座は動かない。逆に変動が上がれば、金利が低いままでも見捨てられる。
- 交代は緩やかに、巻き戻しは一瞬で。席替えは数カ月かけて進むが、解消は数日で終わる。1998年10月がその原型である。
- 致命傷は中央銀行から来る。2015年1月のSNB、そして2026年の日銀と介入当局。調達通貨の物語では、相場より政策カレンダーのほうが危険だ。
個人投資家にとって何が変わるか
| 立場 | 何が変わるか | 実務的な対応 |
|---|---|---|
| FXでスワップ狙いの円売り | 日本の利上げでスワップ収入は縮小方向。介入で変動が上がり、同じ枚数でも実質リスクが増した | 建玉を落とすか証拠金の余裕を厚く。金利収入より変動の想定を優先する |
| 外国株・外貨建て資産を円で保有 | 円安という構造的な追い風が一つ細る。ただし即座の円高を意味しない | 為替を収益源として当てにしない設計に。積立の継続自体は変えなくてよい |
| 円ヘッジ付き投信を保有 | ヘッジコストは日米金利差に連動。日本の利上げは差の縮小=コスト低下方向 | ヘッジ付きの相対的な不利は薄れる。ヘッジ有無の再点検はこの局面が適時 |
そのうえで、距離感を正確に扱いたい。円が調達通貨でなくなるということは、円安を支えてきた構造的な要因が一つ減るということである。しかしそれは、明日から円高が始まるという意味ではない。キャリーの巻き戻しが一気に効くのは危機のときだけで、平時の水準を決めるのは金利差、経常収支、実需といった別の力だ。実際、円は介入後も158円前後の帯に押し戻されている。減ったのは円安の燃料の一つであり、方向そのものではない。1986年の163円との対比を持ち出すまでもなく、通貨の水準は複数の力の合成として決まる。
監視すべき指標と、外れたと認める線
4つの監視点
- スイスフラン円の水準。筆者算出のクロスは198.15円。報道で言及される196円近辺を明確に割り、そこで定着するなら交代の進行を示す。逆に200円台の回復は物語の後退だ。
- CFTCの建玉。フラン売り持ちの積み増しと円売り持ちの削減が同時進行を続けるか。片方だけなら、単なる一時的なポジション調整の可能性が高い。
- 9月17〜18日の日銀会合。約80%の織り込みどおりに利上げすれば円の調達コストはさらに上がる。据え置きなら、円は調達通貨の座に引き戻されやすい。
- SNBの政策。0%の維持がフラン調達の前提である。利上げ方向への転換や、フラン高を抑える強い言動は、前提を崩す。
無効化ライン
本稿の見立ては、次のいずれかが起きた時点で外れたと認める。第一に、9月17〜18日の日銀会合で据え置きとなり、かつスイスフラン円が200円台を回復した場合。調達コストの逆転が解消し、交代の前提が消える。第二に、SNBが利上げ方向に舵を切った場合。フランは調達通貨としての資格を失う。第三に、CFTC建玉でフラン売り持ちが2週連続で減少し、同時に円売り持ちが再び増加に転じた場合。この三つのうち一つでも成立すれば、席替えは起きていなかったという読みのほうが正しい。予想を外したときに何を認めるかを先に決めておくことは、歴史を鏡にする作業の一部である。
主な参照(データ基準日:2026年8月19日、米東部時間11時43分時点)
Yahoo Finance(調達通貨としてのスイスフランに関する分析記事)/米商品先物取引委員会(建玉報告)/スイス国立銀行/日本銀行。
注記1:スイスフラン円198.15円は、筆者がドル円158.40とドルスイス0.7994から算出したクロスレートであり(158.40÷0.7994)、取引所の公表値ではない。報道で言及される196円近辺とは差がある。
注記2:7月30日以降の円買い介入の規模、および米国が1998年以来はじめて円買いを行ったのかどうかは公式に開示されていない。本稿はいずれも断定していない。
注記3:為替水準は執筆時点のものであり、その後変動する。
本記事は情報提供を目的としたものであり、特定の金融商品の売買を推奨するものではない。投資判断はご自身の責任で行っていただきたい。















